清少納言の罪―秋は夕暮れ? 夏は夕暮れ?―
ずいぶん大それた題名をつけてしまいました。
でも、何のことはありません。彼女の『枕草子』冒頭の「春はあけぼの」で始まる名高い一節が、「夕焼けの季節といえば秋」というイメージを日本文化のうちで固定させてしまったことです。そのせいで、実は夏こそが夕焼けの季節であることに気づかず、夏の夕焼けの美しさを見逃す人を増やしてしまった。これはけっこう罪作りなことでした。
こちらはこの夏、いつもの宝ヶ池公園で撮影した真っ赤な夕焼け。
ということで、引用してみます。
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる 雲のほそくたなびきたる。
夏は夜。月のころはさらなり。やみもなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、 ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。
秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行く とて、三つ四つ、二つ三つなど、飛びいそぐさへあはれなり。まいて雁などの つらねたるが、いと小さく見ゆるはいとをかし。日入りはてて、風の音、虫の 音など、はたいふべきにあらず。
冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず、霜のいと白きも、また さらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭もて渡るもいとつきづきし。 昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も白き灰がちになりてわろし。
なるほど、美しい文章です。一日のうちでいちばんすばらしい時間はいつかを、それぞれの季節について語っています。
風情ならば秋の夕暮れが味わい深いのその通りでしょう。
でも夕景のベストな季節は、当ブログで再三強調しているように、夏です。夕焼けの美しさでも出現頻度でも、夏です。
それなのに、清少納言の「秋は夕暮れ」の一節が普及したせいで、「夕焼けの季節といえば秋」と思っている人が、この日本ではかなり多いことでしょう。当の一節は中学・高校の古文の授業でほとんど誰もが触れるでしょうから、このイメージは再生産され続けていることになります。
そのせいで夏の夕焼けの美しさに気づかず見逃す人は、かなり多くなっているのではないかと思っています。
先日の鴨川での夕景。
私自身、わりと最近まで「夏でも夕焼けがこんなに綺麗なことってあるの?」という受け止め方でした。夕焼けにこだわって撮るようになって初めて、夏の方が夕焼けに出会える機会も多ければ、より赤く染まって美しいことも、また「全方位に焼ける」という壮観にしばしば出会えることも、ちゃんと知ったぐらいです。
ウェブ上のコラムでも時々「秋の夕焼けはなぜ綺麗なのか」といった内容のものを時々見かけますが、たぶんライターが夏の夕焼けの美しさを知らずに書いているんじゃないかと見受けます。「夕焼けは秋がいちばん美しい」という前提をはなから疑わないまま、辻褄合わせをしているようなのです。
たとえば「空気が澄んでくるから」という説明にしても、空気が澄んで大気中の水分が少なくなれば夕焼けが赤くは染まりません。
美しい夕焼けが「まだ」見られるのは夏に近い初秋(9月~10月初め)であって、この時期は台風や秋雨でむしろ湿度は高い。東京なら年で最も湿度の高い時期です。本当に空気が澄んでくる晩秋には真っ赤に染まる華麗な夕焼けはめったに見られなくなります。
昔から「秋の夕焼け鎌を研げ」ということわざもあります。近代気象学の発達していなかった時代の農民の知恵です。これ自体は「秋に夕焼けが見られた翌日は晴れる」ということであって、「秋に夕焼けが多い、美しい」という意味は含んでいません。
俳句では「夕焼け」は夏の季語に含められています。これも「夕焼けの季節は秋なのに、なぜ?」となんとか辻褄を合わせようとしているコラムも見かけますが、なんのことはありません。単に、夕焼けが最も美しいのはほかならぬ夏だからであって、昔の俳人たちは、ちゃんとわかっていたというだけでしょう。
このブログのなかで、「夏こそ夕焼けのベストな季節」の記事はアクセス解析を見ても最も多く読まれているようで、また「夏 夕焼け」で検索すれば上位に表示されてもいます。それなりに「夕焼けは夏こそ」という認識が広まっていっていればいいと思ううところです。
お盆も過ぎましたが、まだ猛暑の日々は続き、夏です。今の気候では9月もお彼岸ぐらいまでは初秋というよりまだ晩夏といったほうが季節感は合うぐらいですから、この時期ぐらいまでは美しい夕焼けも高頻度で出会えます。
ということで、みなさま、夏の夕焼けをお見逃しなく。
では、今回もご覧いただきありがとうございました。